織田信長、明智光秀ときて、最後にどうしても視て欲しくなってしまった人物が、もう一人でて来てしまいました。


 その一人とは、日本史では坂本竜馬と並ぶスーパースター、源義経である。日本史に全く関心がない人でも、五条大橋で武蔵坊弁慶と対決した牛若丸といえば、ピンと来ることでしょう。。。


 「この人。。私、子供の頃好きだったんですよねぇ。。。。チンギス・ハーン説ってあるじゃないですか」と言いながら明智光秀の下に「源義経」と書き込んだ。


 義経は源平合戦の後にモンゴルへ渡り、チンギス・ハーンとして活躍したという説がある。


 「あぁ、はいはい。。。。。。あのぉ、最後どうなったんだっけ?」


 「逃げ回って。。岩手のあっちのほうまで逃げてあの辺りで命を絶ったんではないかと!?」


 「あのぉ、ひとつは物凄く統率力はありますよ。だからこの人は。。。それこそホントにまぁ、日本を制覇するぐらいの力はあったし。。。ただこの人はかなりの信頼は厚いはずだし、それからやっぱ部下も付いてきてくれる。平家でも源氏のこっちへ付きたいとかね、かなりの統率力とかはありますよね」


 「ほお! そうですかぁ」


 「それでねぇ。。。これで今視えるのはねぇ、綺麗に斬られて死んでいるとは視えないんですよ。それで非常に納得できているはずですよ。納得できるというのは、例えば。。裁判面ではないと思うんだけどね。。。。いやっ、斬られてないんじゃない、この人は!」


 「じゃあ、モンゴルへ渡ってチンギス・ハーンに!?」


 「う~~んっとねぇ、それ、実は波動からするとねぇ、そのぐらいの勢いは感じるんです、実は! ただね、ただね。。。。う~んっ、そこまでなのかぁ。。まぁ、例えば、北海道ぐらいに渡って、北海道で最後終わったとかね、ほんの数人の部下達と、っていうなら分かる。でも、海外まで行くのかどうなのか!? なんかこう、志半ばで死んだというよりかは、結局生き延びて晩年は静かに。。静かにっていうか、何人か何百人か分かりませんが部下達の間で、落ち武者じゃないけどある村を造って。。みたいな一生だと思うんだけれど、それで、チンギス・ハーンまでなったかっていうと、そこまでいくと僕はちょっとねぇ、綺麗に立証できないし、中国へ渡ったっていうかは、日本でしっかりやったなっていう感じがするんで。。まぁ、そこまで行ってしまうとその入り口ぐらいまでね、例えばよ、他のチンギス・ハーンの先生に当たるぐらいにまでやったとかね、良い先生だからまぁ、家紋とか良く似ているって言われますけれど、それを貰ったとかね、そのくらいだったらあるかもしれないって気がする。。。晩年は割に楽なはず、良い筈なんです。途中で斬られているとか死んでいるっていう概念がどうもないですね。。。なんかあります、なんかあります、これだけの大きな統率力を持っている人だから」


 「はぁ~。。そうですかぁ」


 後日、義経に関して少し調べてみると、源義経北行説(奥州から北海道方面へ逃れた説)というのがあった。


 「ただ、やっぱり合戦の人だと思うけどね、いわゆる徹底して平和な政治を取り仕切る人よりかは、合戦で信頼されている人だね。だから大きく天下統一してその平穏な時代を治めるという政治的な手腕よりか、その。。合戦的な仲間をしっかりと集めていくとか、人格的にあの人なら信頼できるみたいに思われたかと思うだろうね」


 「はぁ。。そうですかぁ。。。」



 信長と光秀の透視は、期待に反して歴史通りの透視をされた感じであった。なので、義経に関しても歴史通りの回答なのだろうと思っていたが、これは意外な回答であった。


 どうやら義経の晩年は、信長や光秀とは違って安泰だったようである。


 だが、この義経の奥さんであった静御前を歴史で調べてみると、その後の人生は屈辱を味わう運命を辿ったようです。。


 { 歴史による源平合戦後の静御前 }


 源平合戦後、源義経は源頼朝と対立。

 静御前は義経と共に京を出て船で九州へ向かったが、嵐により遭難して岸へ戻される。

 その後、吉野で義経と別れて京へ戻る途中、従者に持ち物を奪われ山中を彷徨う。

 彷徨う山中で山僧に捕まり、京にいる北条時政に引き渡される。

 磯禅師(静御前の母)と共に1186年、鎌倉へ送られた。

 静御前は、鎌倉の鶴岡八幡宮で白拍子の舞を頼朝より命じられる。


   
 「吉野山 峰の白雪 ふみわけて いりにし人の 跡ぞ恋しき」


    「しづやしづしづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」


 静御前はこのように義経を慕う唄を謡った。

 この唄で頼朝は激怒すると、妻である北条政子は、「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と話し、怒りを静める。

 『吾妻鏡』によると、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。

 静御前はこの時、義経の子を身ごもっており、頼朝は男子なら殺すと命じた。

 その後、残念なことに静御前は男子を産む。

 産まれた赤ん坊を安達清恒が受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。

 その甲斐もなく、磯禅師が赤ん坊を取り上げ、安達に渡す。

 残念ながら、その赤ん坊は後日、由比ヶ浜の海に沈められてしまう。

 静御前と磯禅師は京に帰されるが、その時憐れんだ政子は多くの宝を持たせた。

 静御前のその後については不明である。



                                 
。。。。「日本の未来編」へつづく



  鶴岡八幡宮
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